LOGIN第6話 朝六時半の戦争
携帯電話の画面に表示された六時四十五分という数字を見た瞬間、私は三つも設定した目覚ましが、睡眠を守ろうとする自分の手によって一つ残らず無力化されたことを悟った。
いつもなら、あと十五分くらい布団の中で人生について考えてから起きるところだが、引っ越してからは学校までの移動時間が長くなっている。七時二十五分のバスを逃せば、次の便は二十分後になり、道路の混雑次第では始業時間に間に合わない。
私は掛け布団を蹴り、制服のシャツへ片腕を通しながら部屋を飛び出した。ところが廊下へ出たところで、食堂から戻ってきた御影先輩と正面からぶつかりかけた。
「朝倉さん、廊下を走らないでください。階段の近くで転んだら危ないでしょう」
「今は御影先輩の注意を聞いている時間がありません。目覚ましが故障して、予定より少し遅く起きただけですから、先に洗面所を使わせてください」
「故障した目覚ましを手に持っているようですが、それは携帯電話の問題ではなく、使用者の問題ではありませんか。それに、俺はもう洗面所
土曜日の朝、私が自分の部屋を片づけている間に、怜央さんは玄関のスリッパを三回並べ直していた。 一度目は左右がそろっていなかったから、二度目は靴箱の扉に近すぎたから。そして三度目は、私が通りかかったときに理由を聞いたせいで、本人も説明するのを諦めた。「踏んで滑らない位置を考えてた」「美緒、普通に歩けるよ。玄関で難しいことはしないから」「分かってる。部屋の片づけは終わったのか?」 都合の悪い質問を返され、私は手にしていた漫画を背中へ回した。探していた巻は見つかったものの、その過程で別の箱を開けてしまい、部屋の床は朝より狭くなっている。「今、最後の調整をしてるところ」「それなら、玄関より自分の部屋を気にしたほうがいい」 正論を置いてリビングへ戻る背中に、私は小さく舌を出した。どうやら、普通にしていてほしいというお願いは、今のところ半分くらいしか届いていない。 午後、駅まで迎えに行くと、美緒は小さな紙袋を提げて改札から出てきた。中身は家族で食べてほしいという煎餅で、母の店が菓子を扱っているから迷った末、甘くないものにしたらしい。「お母さんが喜ぶと思う。仕事では甘いものばっかりだから、家だとしょっぱいもの食べたがるんだよね」「よかった。あと私、ちゃんと普通にするから。先輩が家にいるからって、変にかしこまったりしないし」 その言葉を信じて坂道を上ったのに、玄関で怜央さんが迎えに出た瞬間、美緒の背筋は見事に伸びた。「本日はお招きいただき、ありがとうございます」「そんな挨拶、私の家で聞いたことないんだけど」「ちょっと待って。私も今、自分でびっくりした」 美緒は小声で答えたが、すぐ目の前にいる怜央さんには聞こえていたらしい。彼は笑いをこらえるように口元を引き締め、代わりに一歩横へよけた。「どうぞ、上がってください。荷物はこちらへ……いや、持ったままで大丈夫です。ひまり、先に案内してあげて」「美緒はお客様だけど、視察に来た人じゃないからね。あと、荷物をどこに置くかは、リビングに着いてから決めればいいと思う」 私が先に廊下へ上がる
月曜日の放課後、美緒は私の机まで来ると、鞄を抱えたまま少し考え、こんなことを言った。「今日の話って、甘いものを食べながら聞いても大丈夫なやつ?」 朝から何度も頭の中で説明を練習していた私は、用意していなかった質問に顔を上げた。美緒はふざけているというより、行き先を決めかねている顔だった。「大丈夫だと思うけど、どうして?」「真面目な話の途中でお腹が鳴るの、嫌じゃない。私、今日のお弁当、見た目よりご飯が少なかったんだよね。お母さんがおかずの下にブロッコリーを詰めてて、食べ進めても白米にたどり着かなかった」 その説明を聞いた途端、胸のあたりに詰まっていたものが少し緩んだ。私が一日中、秘密を打ち明けることばかり考えている間、美緒は美緒で、弁当箱の底に予想外の緑を発見していたらしい。「じゃあ、どこか寄ろう。できれば、学校の人があんまりいないところがいいんだけど」「了解。駅の向こうなら、今の時間は空いてると思う」 美緒はそれ以上、教室では尋ねなかった。帰り支度を終えた私に、机の脇へ掛けたままのサブバッグを指で示し、それを受け取ると、いつものように先に廊下へ出た。 私はその背中を見ながら、今日ちゃんと話そう、ともう一度思った。 駅から少し離れた喫茶店は、窓際に年配の夫婦が一組いるだけだった。私たちは奥の二人掛けの席に座り、飲み物とプリンを注文した。店員さんが去ったあと、美緒は鞄を隣の籠に入れ、私のほうへ向き直った。「それで、引っ越しの話って?」 待ってくれていた声だった。急かされていないのに、私は背筋を伸ばした。「お母さんが再婚したことは、前に話したよね。その相手の人に、息子さんがいるんだ」「うん。じゃあ、今はその人とも一緒に暮らしてるの?」「そう。私より一つ上で、同じ学校に通ってて」 美緒の眉がわずかに動いた。私はそこで言葉を止めず、膝の上で両手を重ねたまま続けた。「御影先輩なんだ。お母さんが結婚したの、御影先輩のお父さんとで……今、四人で暮らしてる」 美緒は私を見たまま動かなかった。 窓際でカップが受け皿に置かれる音が
お茶の時間が終わって、二人で食器を洗い始めても、私は美緒への返事を考えていた。 来てほしいのは本当だった。新しい部屋を見せたいし、引っ越しのときに奥へ押し込んだ漫画を一緒に探すのも楽しそうだ。ただ、その楽しみを思い浮かべるたび、玄関で怜央さんと鉢合わせした美緒が、靴を片方だけ脱いだ姿勢で固まるところまで想像してしまう。 それなら先に話せばいい。分かっているのに、スポンジでこすっている皿の裏側ばかりが、いつまでも気になった。「ひまり。その皿、もう十分きれいだと思う」 隣でカップを拭いていた怜央さんに言われ、私は蛇口の下へ皿を移した。泡が流れ落ちた白い陶器には、傷ひとつ残っていない。代わりに、私の中の考えは同じところを何度も回っていた。「来週の土曜日って、何時ごろ出かける?」 口にしてから、聞き方を間違えたと気づいた。 怜央さんは布巾の中でカップを半周させ、持ち手の付け根を拭いた。「まだ決めてない。午前中に本屋へ行こうかと思ってたけど、午後のほうが都合がいいなら、そうする」「帰る時間も、変えられる?」「中原さんが帰ってから戻ればいいか?」 彼の声は、責めるものではなかった。それがかえって、私のしていることを分かりやすくした。 さっきまで、彼のカップを隠したくないと思っていたくせに、最初に尋ねたのが不在の時間だ。きれいなことを考えるだけなら簡単で、実際に動こうとすると、私はすぐ面倒の少なそうなほうへ手を伸ばしてしまう。「ごめん。今の聞き方、なしにして」 蛇口を閉めると、水音が途切れたぶん、声が思ったより大きく響いた。「あなたに外へ出ていてもらえば、美緒に説明しなくて済むって、ちょっと考えた。でも、それだと次に来るときも同じことになるよね」「一度くらいなら、俺は構わないけど」「一度で済まなくなる気がするの。今日は都合が悪いとか、家族がいるからとか、理由をつけるのはできるけど……そのうち、美緒を呼ぶこと自体が面倒になりそうで」 濡れた手をタオルで包みながら、私は食器棚を見た。 そこには母が持ってきた皿と、この家にもとも
土曜日の午後、私は焼き菓子を六種類も皿に並べてから、さすがに少し張り切りすぎたと気づいた。 紅茶のサブレに、焦がしバターのフィナンシェ。薄く切ったレモンケーキと、小さなマドレーヌ。そこまではよかったのに、甘いものばかりでは飽きるかもしれないとチーズのクッキーを足し、最後に、自分が食べたかったという理由だけでチョコレートのパウンドケーキまで加えてしまった。 母の店で選んでいるときは、どれも少しずつに見えたのだ。ところが家の皿に移した途端、それぞれが急に存在感を主張し始めた。 風邪はすっかりよくなり、木曜日から学校にも戻っている。食欲も元どおりだとはいえ、これは回復の証拠としては度が過ぎている気がした。「……何人来るんだ?」 リビングの入り口で足を止めた怜央さんが、テーブルと私を交互に見た。 制服ではなく、薄い灰色のシャツに黒いパンツという格好だった。家では何度も見ているはずなのに、わざわざお茶に誘ったせいで、今日は来客を迎えたような気分になる。そのくせ彼はこの家の住人なので、私が出し忘れたコースターを迷いなく棚から取り出した。「二人だけですけど。何か問題でも?」「問題というか、俺の知らないところで美月さんたちの分も用意したのかと思って。二人とも夕方まで戻らないだろう」「全部食べなきゃいけないわけじゃないから。好きなのを選べるようにしただけ」「それなら、袋のまま残しておいてもよかったんじゃないか」 正論だったので、私はポットの蓋を直すふりをした。 看病のお礼にお茶をいれる。それだけの約束だったはずなのに、いざ準備を始めると、少ないと思われたくないし、好みに合わないものばかりでも嫌だった。迷ったものを全部買った結果が、この小さな菓子売り場である。「怜央さんが何を好きなのか、よく分からなかったんだもん。甘いものは食べるけど、自分から選んでるところ、あんまり見たことなかったし」 彼は皿に目を落とし、今度はひとつずつ確かめるように眺めた。「それで、これだけ選んだのか」「言い方に気をつけて。いま私、自分でも少し反省してるから」「いや。ありがとう」
翌朝、私は学校を休んだ。 熱が下がりきっていなかったこともあるけれど、制服に着替えるところを想像しただけで疲れたので、母に休もうと言われたときには素直にうなずいた。昨日あれだけ人の手を借りておいて、また途中で動けなくなるのは嫌だったし、何より、布団が私を手放す気配を見せなかった。 怜央さんは登校前、扉の外から声をかけてきた。「学校から必要な連絡があれば、帰ってから伝える。放課後レターの資料も、今日は開かなくていいから」「その言い方だと、私が隠れて仕事をする人みたいなんだけど」「違うなら安心した。じゃあ、いってくる」 反論する前に足音が遠ざかった。枕の下には、昨夜から気になっていた再開案の印刷物が一枚だけ挟まっている。見つかっていないはずなのに、私は誰もいない部屋でそれを抜き出し、机の引き出しへしまった。 代わりに目に入ったのが、昨日の看病の予定表だった。 母が書き足した、怜央さんも早く寝ること、という項目の隣に、鉛筆で小さく『できました』と書いてみる。ところが、子どもの宿題を採点しているようで落ち着かず、すぐ消した。消し跡を指で払っ
次に目が覚めたとき、窓に映る部屋のほうが、外の景色より明るくなっていた。机の隅には小さな照明がついていて、カーテンの向こうから、車が坂を上っていく音が聞こえる。喉はまだ痛いけれど、布団から腕を出すのさえ億劫だった夕方よりは、少しだけ体を動かす気になれた。 枕元の水を飲んでいると、お腹が鳴った。寝る前には桃のゼリーだけで十分だったくせに、私の胃は回復の手柄を独り占めする勢いで働き始めている。 スマートフォンで母に起きたことを伝えると、ほどなく廊下から足音がした。ただし、ノックに続いて聞こえたのは、母ではなく怜央さんの声だった。「夕飯、少し食べられそうか。美月さんが、卵の雑炊ならあると言ってる」「食べたい。自分で下りるから、置いておいてもらっていい?」「持ってくる。階段を往復する元気があるなら、その分を食べるほうに使ってくれ」 それには素直に甘えることにした。さっきまでなら、自分でできると言い張っていたかもしれないけれど、足を布団から出した途端に床の冷たさを思い出し、私の自立心はあっさり引っ込んだ。 少しして入ってきた怜央さんは、湯気の立つ器を載せた盆を机に置いた。卵の黄色に、細かく刻んだ青菜が混じっている。だしの匂いを吸い込むと、急にお腹